西原町 幸地グスク 【ドライブ】
2015年06月29日
PROのアンマーが入院する病院から西原町や与那原町、南城市の佐敷、知念の眺めが素晴らしい。
沖縄芝居「運玉 義留(ウンタマギルー)」が根城としていたとされる「運玉森(ウンタマムイ)」をはじめ、コンクリート建造物が日々増えていく中でもなお残る深い緑。
緑と共に多くの西原んちゅが暮らすシマ(字)が広がっています。
そんな西原町の公式HPを徘徊していると、いくつかの史跡も見つかりました。
おそらく病院から見下ろす景色の中では緑に埋没しているんだろうけど、今回はそういう小さな歴史を訪ねてみる事にしました。
目的地は「幸地グスク」。
あんしぇ~、いちゃびら。(それじゃ、いってみましょうか)
西原高校前の坂田交差点から首里の鳥堀向けに抜ける県道29号線を幸地公民館に向かって左折。
上の写真のように、思いっきり住宅街の中を進みます。
対向車がきたら譲り合わないと通れないような道。ホントにこの先にグスクがあるのかしら? と不安になりながらよんな~、よんな~♪
予め小高い丘の上にあるとリサーチ済だったので、徐々に高いところに上って進んでいる事だけを信じて進む。
クルマで通っていいのか戸惑う景色になってきました。
登りきると見違えるような拓けた景色。
駐車場ではありませんが、誰もお咎めなしのフリースペースですから好きなようにクルマを停めてオッケーです。
沖縄レンタカー が50台くらい押し寄せてきても大丈夫ですよw
手前には運玉森、奥には知念半島がハッキリと見えます。
下の部分の建築物はともかく、山と海のは琉球王国時代の眺望と何ら変わらなかったんでしょうねぇ。
この幸地グスクは、15世紀の琉球王国時代、熱田子(あったし)という按司が主で、なかなか武闘派の強い親分だったそうな。
近くにある津記武多(チチンタ)の按司としばしば諍いを起こし、最後は滅ぼしてしまったとの事。
その津記武多按司の敵討ちで今帰仁城按司が熱田子に対して兵を繰り出したそうですが、熱田子はそれも退け、後々その子達に滅ぼされたとの記述があるそうです。
なかなかの チューバー(強者)だったみたいですね。
PROもあまり詳しくはないのですが、首里城や今帰仁城跡、座喜味城跡 等の世界遺産の城跡に比べて規模が小さく、どう考えてもこのコブのような丘に建物を建てるのは難しかったのでは? と考えています。
案内板には一番標高が高いところに“主郭” の表記がありますが、どうも“本殿” というものとは意味も機能も違うような。
ここはヘッドオフィスのようなもので親分の寝所や生活空間はなく、子分(兵)達が交代制で出勤してナワバリの警戒に目を光らせ、いざ戦となったら本陣となるような城だったのかなぁと想像します。
人の気配が全くないスポットですが、その割には雑草などが伸び放題 ...という訳ではありません。
おそらく町が定期的にメンテナンスしているのだと思います。
郭に進む導線もしっかり確保されていましたよ。
真っ昼間とはいえ、誰もいない史跡の茂みに一人で入っていくのはちょっと緊張しますねぇ (^_^;
先程の案内板にあった“主郭” と思われる地点にやって来ました。
案内板では一番標高の高い場所にポイントが打たれていたのでここでしょう。
現在では“ビージル” という祠? のようなものが設置されています。
このビージルについてググってみると。
“拝所” ということで、幸地のシマの人達が御願(ウグヮン)の時に手を合わせる場所だそうです。
幸地グスクとして機能していた頃からあるのか? 或いは幸地按司の没落後、シンボリックな場所として御願所をここに置くことにしたのか?
ところどころ陽の光が差し込み、思ったほどおどろしい雰囲気はありません。
遊歩道もそれなりに整備されていて、何処歩けばよいのか分からない... という状態でもありません。
夏のこの時期でこうなので、けっこう管理者がマメに手入れしていると思います。
ちょっと大きな蜂を見ましたのでもしかしたらスズメバチの巣があるかもしれませんが、驚かせることなく丁寧に撮影している限りでは何の問題もなかったですよ。
「幸地グスクガ-」と呼ばれる井戸の部分にやって来ました。
表示のそばに枯れた(というか埋められた)井戸が二つあります。
戦の時にはこのグスクに多くの人が集まり、長い時間グスクを守っていたのですから、生活の場所ではなかったにせよ水の確保は大事な生命線の筈です。
クルマに戻るともう一つ案内板がありました。
“歴史の道” と題して、琉球王国時代、この幸地グスクの往来の様子が架かれています。
政治の都である首里と中山の中城城を結ぶ経由点のグスクとなっており、行き交う人々が多くここを通ったと記載されています。
当時は尾根伝いに移動したようで右の写真の草がないところが一応道みたいになっていますが、向こうに見える山との間には急勾配の山道(ほぼジャングルw)があり、当時の人達がいかに難儀をして移動していたのかが想像できます。
また、地図を見て初めて気づいたのですが、首里の府からこの幸地までの距離と、ここから中城までの距離はおよそ2.5倍の差があり、西原は首里にものすごく近い重要な間切だったんだなぁと認識しました。
歳をとって思うのですが、こういう古の息吹を感じるのを凄く楽しんでいる自分がいます。
ヤマトの山や川のある風景や、社寺、仏閣を観るのも十分楽しいのですが、沖縄の昔についてひとつひとつ確認していく事は、自身のアイデンティティを確認しているようで、また一味違う趣を感じます。
今回はちょっと観光客向きではないネタになりましたが、自分が何者なのかを再認識した上で、観光情報誌には載っていない魅力もお届けできたなと思います。